つま先立ちをしただけで後ろに倒れた

立ちくらみで倒れた。

 

座った体勢から立ち上がって高い所(吊り戸棚)の物を取ろうと手を伸ばしたところまでは覚えている。

 

「?」

気がつくと私は床に転げていた。

はじめは何が起きたか分からなかった。

ということは、一瞬意識を失っていたのだろう。

徐々に自分が床に転げているという状況を理解した。

倒れるときに掴んだ水切りカゴが床に落ちていた。

ステップチェアが倒れていた。

理解してからようやく立ち上がることができた。

腰と頭をぶつけて痛かった。

 

幸いケガはなかった。

 

お片付け難民が掃除をする方法

片付けが苦手だ。

 

物をどこにしまったらいいのかわからない。

それにそもそも、生活に必要な物をすべて収納できるほど、私の家は広くない。

 

お片付けコンサルタントを家に呼んで知恵を借りても解決しなかった。

やはり家が狭いのだろう。

 

 

さて、そんな私でも床のホコリは掃除したい。

なぜならハウスダストアレルギーで鼻炎になるからだ。

 

床に物を置いているのにどうやって掃除するかの方法。

 

 

右の物を左に寄せる

 ↓

右半分に掃除機をかける

 ↓

左に寄せた物と左に置いてあった物を今度は右に寄せる

 ↓

左半分に掃除機をかける

 

これでホコリは大分とれる。

 

近頃は何でも捨てるのが流行りだけれど、生活に必要な物まで捨てるわけにはいかない。

無理に捨てたところで生活に支障が出るだけだ。

 

広い家に住みたいなあ。

 

そうはいってもお金持ちではないので、今ある家で何とかするしかない。

 

以上、片付けが出来なくても掃除をする方法でした。

 

あきらめから向上心へ

このブログを始めた頃は

「もう無理!しんどい!この気持ちを吐かせて」という気分だったけれど

近頃は向上心を持てている感じがする。

 

ウォーキングをしたり、筋トレを少ししたり、

トレーニングルームへも行ったりしている。

 

なぜ前向きになれたのだろう?

理由はわからない。

ただ少しずつ、回復しはじめているようだ。

ウォーキングで体調が向上したような気がする

努力って実ることもあるんだなあ。

 

低血圧を治したくて、日常的にウォーキングをするようにしていた。

その結果・・・

 

体力がついた!!

 

以前なら無理だった距離が歩けるようになった。

 

血圧も、前は上が80台だったものが90台に上がった。

 

体調も前より安定して、ひどく崩れるようなことが大幅に減った。

 

やはり運動って大事なんだなあ。

「私はこんなに頑張っているのに!」の罠

自分がすごく頑張っているのに人に認めて貰えないとき、不満になりがち。

 

でも、自分がすごく頑張ってしていることは、他人ならそんなに頑張らなくてもできることかも知れない。

 

自分のキャパシティが小さいだけなのかもしれない。

 

そう考えると、悲しくはなるけれど、人に不満を持つことは減りそうだ。

自殺してはいけない社会の方が、窮屈ではない!?

自殺はいけない。

それは現在の社会でのルールのようなものと思っている。

(あと残された人の悲しみの問題もある)

 

生きるのは辛い。

こんな身体もう嫌だ死にたい、と思うこともある。

 

ただ「死にたい人は死んでも構わない社会」が望ましいか?といったら、それは一筋縄ではいかない。

 

社会は今のところ「死んでも構わない命なんてない」という前提でできている。

 だからこそ、病気やケガをした人、歳をとって働けなくなった人も支える社会システムがある。

 

これが「死にたい人は死んでも構わない社会」が到来したら?

それは「死んでも構わない命もある」という前提にひっくり返ってしまう。

そこで社会の役に立たない人がどのように扱われるか、少なくともかなり肩身の狭い思いをするのではないか、と考えるとちょっと恐い。

 

「自殺してはいけない」社会だからこそ、私のように役に立たない者でも生きていられるのではないか、と表題タイトルにした。

 

かといって、どんなに歳をとってもどんなに苦しい病気にかかっても技術の限り生きなければならない社会、というのもそれはそれで恐い。

 

「生きたい」も「死にたい」もどちらも尊重される社会が理想なのかもしれない。

しかしそのとき意思表示もできない命は、どうなってしまうのか。

 

これからますます高齢者が増える時代、社会はどうなってゆくのだろう。