あきらめから向上心へ

このブログを始めた頃は

「もう無理!しんどい!この気持ちを吐かせて」という気分だったけれど

近頃は向上心を持てている感じがする。

 

ウォーキングをしたり、筋トレを少ししたり、

トレーニングルームへも行ったりしている。

 

なぜ前向きになれたのだろう?

理由はわからない。

ただ少しずつ、回復しはじめているようだ。

ウォーキングで体調が向上したような気がする

努力って実ることもあるんだなあ。

 

低血圧を治したくて、日常的にウォーキングをするようにしていた。

その結果・・・

 

体力がついた!!

 

以前なら無理だった距離が歩けるようになった。

 

血圧も、前は上が80台だったものが90台に上がった。

 

体調も前より安定して、ひどく崩れるようなことが大幅に減った。

 

やはり運動って大事なんだなあ。

「私はこんなに頑張っているのに!」の罠

自分がすごく頑張っているのに人に認めて貰えないとき、不満になりがち。

 

でも、自分がすごく頑張ってしていることは、他人ならそんなに頑張らなくてもできることかも知れない。

 

自分のキャパシティが小さいだけなのかもしれない。

 

そう考えると、悲しくはなるけれど、人に不満を持つことは減りそうだ。

自殺してはいけない社会の方が、窮屈ではない!?

自殺はいけない。

それは現在の社会でのルールのようなものと思っている。

(あと残された人の悲しみの問題もある)

 

生きるのは辛い。

こんな身体もう嫌だ死にたい、と思うこともある。

 

ただ「死にたい人は死んでも構わない社会」が望ましいか?といったら、それは一筋縄ではいかない。

 

社会は今のところ「死んでも構わない命なんてない」という前提でできている。

 だからこそ、病気やケガをした人、歳をとって働けなくなった人も支える社会システムがある。

 

これが「死にたい人は死んでも構わない社会」が到来したら?

それは「死んでも構わない命もある」という前提にひっくり返ってしまう。

そこで社会の役に立たない人がどのように扱われるか、少なくともかなり肩身の狭い思いをするのではないか、と考えるとちょっと恐い。

 

「自殺してはいけない」社会だからこそ、私のように役に立たない者でも生きていられるのではないか、と表題タイトルにした。

 

かといって、どんなに歳をとってもどんなに苦しい病気にかかっても技術の限り生きなければならない社会、というのもそれはそれで恐い。

 

「生きたい」も「死にたい」もどちらも尊重される社会が理想なのかもしれない。

しかしそのとき意思表示もできない命は、どうなってしまうのか。

 

これからますます高齢者が増える時代、社会はどうなってゆくのだろう。

伸び縮みする時間に対応するために有効なアプリ

発達障害の人の体感時間は、一定じゃない。

ゆっくり進んだり速く進んだりバラバラだ。

 

それを補うための一つの方法として、タイマーやアラームの活用があげられる。

 

リンクで紹介するアプリは、時報に使ったり、目覚ましに使うだけでなく、Googleカレンダーの予定をその時間になると読み上げてくれるので便利。

 

アラームの設定も一件ごと/グループごとに細かく設定できるし「第○水曜日」みたいな指定もできるからごみ出しのお知らせにも超便利。

 

 

アラームカレンダーPlus


アラームカレンダーPlus (時報機能付きの目覚まし時計) - Google Play の Android アプリ

 

 

ネットは参考になることがたくさんある

ネットを読んでいて「ためになるなあ!」「参考になるなあ!」と思うことがたくさんある。

 

でも「例えばどんなこと?」と聞かれると、「さて何だっけ…」と覚えていないことが多い。

 

「ためになるなあ!」「参考になるなあ!」と思ったことは、メモやノートにとらないと忘れてしまう。

近頃は調子が良い

ここしばらく、前に比べて調子が良い。

 

瞑想を始めたからなのか、

就寝を早めたからなのか、

なるべく散歩に出るようにしたからなのか、

医師の指示で体重を1~2kg増やしたからなのか、

冷たいものを食べないようにしたからなのか、

チラミンを摂るようにしたからなのか、

 

何が作用したのかわからない。

もしかしたらその工夫のどれもが合わさって効いたからなのかもしれない。